鍬の刃が、さくさくと気持ち良く土に中に入っていく。
太陽は、真上から照りつけているが、夏の激しさの変わりに、優しさを持っている。
老人の体は、軽く汗ばんでいる。風に冷たさを感じる。
見上げると、太陽は、西に傾いている。老人の長い影を、畑の上に作っている。
今日は、これまでだな。
老人は、腰を下ろし、タバコと携帯用の灰皿を取り出す。
タバコに火を点ける。タバコの煙が、夕焼けの空にゆっくりと昇っていく。
老人は、妻の身体を拭いていたとき、湯が天井に反射した、明るい陽光のことを思った。
あの光は、心を癒す光だ。
妻の背中には、大きな傷跡がある。
若い頃、老人の心は、荒れていた。
酔った老人は、恐ろしい勢いで妻を蹴飛ばした。その時の傷だった。
そんな老人を、妻は、なにも言わずにいつも受け入れてくれた。
妻が、寝たきりになったとき、老人は、妻の世話を運命として受け入れた。
妻への感謝の念や愛情からではなかった。老人は、そう考えた。
しかし、妻の身体を拭き、下着を取り替えてやり、食事をさせてやるという生活を続けるうちに、愛とは、若い頃に考えていたよりも、深く大きなものであることに気付き始めた。
いつの間にか、あたりはどっぷりと暮れている。
帰らなくちゃな。
俺には、待っている人がいる。
1995/09/16