2016/03/16

侯爵婦人

 盛んな夏の光りが、庭に降り注いでいる。
 木造の風通しのいい家を、涼風が、通り過ぎている。

 縁側に、祖母と、姉弟である2人の孫、猫。
 祖母が、昔々と語り始める。

 孫たちは、肩で小突きあっている。
 2人の間では、祖母の昔話は、退屈だという、評価が定まっていた。
 あ、わたし、近所の子と、遊ぶ約束をしてたんだ。あんたもよね。

 2人は、風のように、消える。
 猫が、残る。

 老婆は、猫を見つめる。
 猫は、そっと溜息を吐く。まあ、仕方がない。
 老婆は、にっこりと微笑むと、話を続けた。

 昔々、ある所に、侯爵婦人がいた。

 かつて彼女は、欲張りで、遊び好きの、とびきり生き生きとした、魅力的な女だった。
 しかし、彼女は、蜂蜜酒とカカオ菓子に溺れてしまった。

 輝いていた体は、浮かんできた水死体のように膨れ上がり、色がくすんでしまった。自分で、自分の体を動かすのも、大変になってしまった。
 日常動作に、屈強の若者の力が、必要になった。

 若者の顔は、毎日のように、変わった。
 彼女の放屁のせいだった。
 その猛烈な臭いに、耐えれるものは、誰もいなかった。

 ある時、1人の若者が、やってきた。
 それから、若者の顔が、変わることはなかった。
 彼は、潜水の名人だった。いくらでも、息を止めることができた。

 ところが、半年ほど立った頃、若者は、侯爵婦人が、放屁すると、気絶してしまった。
 次の日もそうだった。
 その次の日もそうだった。
 次の次の次の日もそうだった。

 とうとう、若者は、命を失ってしまった。

 老婆は、そっと猫を窺う。
 猫は、笑う代わりに、もの思いに沈んでいた。

 おや、お前は、賢いね。

 いつの時も、恋は、人智を越え、神秘的なものだ。
 若者は、侯爵婦人に、恋したのだった。
 若者は、侯爵婦人を、まるごと愛そうとした。

 そういうことだ。

※G・ガルシア・マルケスの『愛その他の悪霊について』に登場する侯爵婦人がモデルです。

1995/08/03