2016/03/17

 夏。南の島。

 ジョゼフ・コンラッドの小説と、波の音、それ以外には、何もない家。
 それが、男の家だった。

 男は、早朝に獲ってきた魚を、手早く、三枚に下ろし、刺身にする。
 できたての、ほかほかのご飯といっしょに、酢醤油で食べる。
 男の顔が、ほころぶ。

 男の顔は、半分ない。
 戦争で、失ったのだ。

 男は、まだ、子供だった。

 攻め寄せる、敵兵。
 子供は、恐怖のために、手足を満足に動かすことができない。

 山の中。洞穴。
 子供は、飛び込む。しかし、すぐに弾き出される。
 ここは、一杯だ。他を探せ。
 子供は、銃弾の中に押しやられ、顔の右側を失った。

 男は、それから、独りで生きてきた。
 恨みからではなかった。

 男は、その出来事を、何度も何度も考えてみた。

 ある日、気付いたのだ。
 もし、自分が、洞穴の人間だったら、同じことをしただろう。
 男の顔を半分失わせたのは、男自身だった。

 そのことを知ると、男は、独りで生きることを選んだ。
 そんなことを知ってしまった人間に、外にどんな生き方ができただろう。

 男は、海を話し相手にした。
 やがて、男は、海の感情が、手に取るように分かるようになった。
 男は、魚が、いつ、どこにいるのか、すぐに分かるようになった。

 男は、自分が生きていくのに、必要な分しか、魚を獲らなかった。
 刺身を頬張っている、男の顔は、まだ、ほころんでいる。

 海は、男を愛し、男も海を愛していた。
 男は、そのことに気付いていない。

 ここは、波の音で、一杯だ。

1995/08/08