夏。南の島。
ジョゼフ・コンラッドの小説と、波の音、それ以外には、何もない家。
それが、男の家だった。
男は、早朝に獲ってきた魚を、手早く、三枚に下ろし、刺身にする。
できたての、ほかほかのご飯といっしょに、酢醤油で食べる。
男の顔が、ほころぶ。
男の顔は、半分ない。
戦争で、失ったのだ。
男は、まだ、子供だった。
攻め寄せる、敵兵。
子供は、恐怖のために、手足を満足に動かすことができない。
山の中。洞穴。
子供は、飛び込む。しかし、すぐに弾き出される。
ここは、一杯だ。他を探せ。
子供は、銃弾の中に押しやられ、顔の右側を失った。
男は、それから、独りで生きてきた。
恨みからではなかった。
男は、その出来事を、何度も何度も考えてみた。
ある日、気付いたのだ。
もし、自分が、洞穴の人間だったら、同じことをしただろう。
男の顔を半分失わせたのは、男自身だった。
そのことを知ると、男は、独りで生きることを選んだ。
そんなことを知ってしまった人間に、外にどんな生き方ができただろう。
男は、海を話し相手にした。
やがて、男は、海の感情が、手に取るように分かるようになった。
男は、魚が、いつ、どこにいるのか、すぐに分かるようになった。
男は、自分が生きていくのに、必要な分しか、魚を獲らなかった。
刺身を頬張っている、男の顔は、まだ、ほころんでいる。
海は、男を愛し、男も海を愛していた。
男は、そのことに気付いていない。
ここは、波の音で、一杯だ。
1995/08/08