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2016/04/02

 萩子は、自分の流す涙の量に驚いている。

 次から次へと、ぽろぽろ溢れてくる。
 少し心配になる。

 生物の時間を思い出した。人体は、ほとんど水でできている。
 私は、それを実証しているわけか。
 可笑しくなる。

 でも、別れようという言葉は、あまりにも悲しすぎる。
 萩子は、窓ガラスに映る自分を、しばらく眺めた。
 コーヒーの香りに、初めて気付く。

 明るく気持のいい陽光に満ち満ちた夏が終わり、秋が訪れる。

 夏が終わろうとする時、人は、あれほどにも元気だった陽光が、弱々しさをみせるのを見て、不安になる。
 光りが漲っていた空は、暗い雲に覆われる。しっとりとした雨が、降り続く。
 人は、夏を恋しがる。

 しかし、やがて雨に磨き抜かれたような、美しい秋が現われる。
 そんな秋は、心に染み入るような美しさを持っている。

 夏は思い出となり、人は、秋のどこか淋しげなきらめきを楽しむ。

 萩子は、スケッチ・ブックを持って、砂浜に腰を下ろしている。
 夏の賑わいが終わった、秋の海。

 萩子は、その海を丹念にスケッチ・ブックの白の空間に写し取っていく。
 人間は、海から生まれた。だから、ほとんど水分でできている。

 あれから、何年たったんだろう。
 萩子は、立ち上がる。

 海風を感じた。

1995/09/21

2016/03/29

 鍬の刃が、さくさくと気持ち良く土に中に入っていく。
 太陽は、真上から照りつけているが、夏の激しさの変わりに、優しさを持っている。

 老人の体は、軽く汗ばんでいる。風に冷たさを感じる。
 見上げると、太陽は、西に傾いている。老人の長い影を、畑の上に作っている。

 今日は、これまでだな。
 老人は、腰を下ろし、タバコと携帯用の灰皿を取り出す。
 タバコに火を点ける。タバコの煙が、夕焼けの空にゆっくりと昇っていく。

 老人は、妻の身体を拭いていたとき、湯が天井に反射した、明るい陽光のことを思った。
 あの光は、心を癒す光だ。

 妻の背中には、大きな傷跡がある。
 若い頃、老人の心は、荒れていた。
 酔った老人は、恐ろしい勢いで妻を蹴飛ばした。その時の傷だった。

 そんな老人を、妻は、なにも言わずにいつも受け入れてくれた。

 妻が、寝たきりになったとき、老人は、妻の世話を運命として受け入れた。
 妻への感謝の念や愛情からではなかった。老人は、そう考えた。

 しかし、妻の身体を拭き、下着を取り替えてやり、食事をさせてやるという生活を続けるうちに、愛とは、若い頃に考えていたよりも、深く大きなものであることに気付き始めた。

 いつの間にか、あたりはどっぷりと暮れている。

 帰らなくちゃな。
 俺には、待っている人がいる。

1995/09/16

2016/03/19

ベット

 まだ、日中の気温は、30度以上に上がるが、確実に秋の気配が感じられる。

 山奥。小屋。

 小屋の中には、ベットと椅子とテーブルがある。
 ベットに横たわる男と、椅子に腰掛けている女。

 女は、タバコを取り出す。マッチを擦る。タバコに火をつける。
 古風だな。
 女は、一瞬考える。
 ライターだと、臭いがタバコに移るわ。

 女は、立ち上がり、窓に近づく。窓を開ける。
 女は、風を頬に感じる。風は、冷たい。
 女は、冬の寒さを思う。

 女は、窓を閉める。再び、椅子に腰を下ろす。
 タバコの灰を、テーブルの上の灰皿に落とす。
 冬は、嫌い?
 男は、しばらく、天井を見つめる。
 ああ。冬は、人の温もりを恋しがらせる。だから、冬は嫌いさ。
 女は、男を見つめる。
 男は、女に視線を向ける。傷ついた身体が、少し痛んだ。
 ありがとう。君がいなかったら、自分が冬が好きかどうかも考えることができなかった。
 女は、なんでもないという風に、首をゆっくりと横に振る。

 男は、いらずらっぽい表情を浮かべる。
 ともかく、君は、僕の全てを知ったわけだ。
 女は、一瞬考え、顔を赤らめる。
 男は、微笑むと、そのまま寝入った。

 男は、幸福な夢を見ている。
 女の手が、男を起こす。

 男は、自分が見た夢について話そうとして、女の厳しい表情に気が付く。
 女の右手には、拳銃。
 男は、黙って頷く。
 女は、左手の指を3本立ててみせる。
 敵は、3人か。

 女の動きが、止まる。
 女の額を、銃弾が、打ち抜いている。

 男は、すばやくベットから、抜け出す。
 盾にするために、女の身体を横たえる。
 女の拳銃は、男の手に、ぴったりと収まる。

 男は、女の髪を優しく撫でると、気配を消した。

1995/09/02

2016/03/18

水面

 夏の太陽の光りを、きらめかせている、プールの水面。
 プールの片隅にある、どっしりした、大きな木。

 その木は、地面から、吸い上げた水を、葉の表面で、蒸発させる。
 熱は、気化熱となり、木は、傍らの人間を、涼気で、包む。

 信男は、木陰で、気持ち良さそうに、眠っている。
 早朝練習、午前中の練習を終え、昼食には、カレーを食べた。旨味しかった。

 人の気配がする。信男は、目を覚す。先輩だった。
 起こしてしまったようね。私も、ここで寝ていいかしら。
 信男は、黙って頷く。

 先輩は、スイミング・タオルを広げると、信男の側に、横たわった。

 木の周りでは、風が、吹いている。葉が騒めく。
 信男は、目を閉じた。気持がいいなあ。

 先輩の身体が、信男の身体に触れた。
 信男は、少し考えた。身体をずらす。また、触れてくる。信男は、そっと身体をずらした。

 ふーん。
 先輩の声が聞こえた。その声には、軽侮の響きがあった。

 自尊心を傷付けられ、信男の顔が、さっと赤らむ。
 僕は、どう振る舞うべきだったんだろう。
 それでも、信男は、眠ってしまったらしい。

 さあ、練習よ。
 先輩の凛とした、声に起こされた。
 目を開けると、先輩の微笑んだ顔があった。

 信男は、自由型の長距離選手だった。
 午後の練習は、100mを30本、10秒休みで、5セットやる。かなり、辛い練習だ。

 練習は、3セット目に入っている。着いた途端に、マネージャーの冷酷な、秒読みの声が、聞こえる。
 ・・・5、4、3、2、1、ゴー!

 信男の頭の中には、先輩のことは、もうなにも無い。
 水面の輝きだけがある。

1995/08/26

2016/03/17

 誠二と恵子は、駅の階段を、人混みにもまれながら、昇っていく。

 ちょうど、電車が入ってくる。人の流れが、乱れる。
 2人は、後ろから押されるようにして、電車に乗る。

 人の熱気が、立ちこめているが、冷房が、気持いい。
 2人は、けっきょく、先頭車両の運転室の真後ろに、位置を占めた。

 恵子は、ハンカチを取り出して、顔の汗を拭く。
 誠二の顔にも汗が出ていた。恵子は、その汗も、ハンカチで拭いた。

 2人とも、沈んだ顔をしている。
 誠二のスニーカーが、床を軽く蹴っている。恵子は、それをぼんやりと見ている。
 スニーカーの動きが止まる。恵子は、顔を上げる。恵子は、口を開こうとしたが、誠二の顔を見て、止めた。

 再び、スニーカーが、床を蹴りはじめる。再び、恵子は、それをぼんやりと見はじめる。
 電車は、止まり、発車する。その度に、人が降り、乗り込む。

 誠二は、床を蹴り続け、恵子は、見続けた。
 誠二は、恵子の泣き声を聞いたように思った。
 恵子の顔をそっと見る。迷い子の顔。

 誠二は、恵子に声をかけようと、顔を上げる。
 横目に運転席の風景が、見えた。
 誠二は、その風景に視線を向ける。

 恵子、あれを見ろ。
 誠二は、恵子の肩を引き寄せる。

 レールとレールの間に、赤い花が、あった。
 それは、厳しい夏の陽射しの中にも、すっくと真っ直ぐに立っていた。

 通り過ぎてからも、2人は、その赤い花を見続けた。

1995/08/12

2016/03/16

侯爵婦人

 盛んな夏の光りが、庭に降り注いでいる。
 木造の風通しのいい家を、涼風が、通り過ぎている。

 縁側に、祖母と、姉弟である2人の孫、猫。
 祖母が、昔々と語り始める。

 孫たちは、肩で小突きあっている。
 2人の間では、祖母の昔話は、退屈だという、評価が定まっていた。
 あ、わたし、近所の子と、遊ぶ約束をしてたんだ。あんたもよね。

 2人は、風のように、消える。
 猫が、残る。

 老婆は、猫を見つめる。
 猫は、そっと溜息を吐く。まあ、仕方がない。
 老婆は、にっこりと微笑むと、話を続けた。

 昔々、ある所に、侯爵婦人がいた。

 かつて彼女は、欲張りで、遊び好きの、とびきり生き生きとした、魅力的な女だった。
 しかし、彼女は、蜂蜜酒とカカオ菓子に溺れてしまった。

 輝いていた体は、浮かんできた水死体のように膨れ上がり、色がくすんでしまった。自分で、自分の体を動かすのも、大変になってしまった。
 日常動作に、屈強の若者の力が、必要になった。

 若者の顔は、毎日のように、変わった。
 彼女の放屁のせいだった。
 その猛烈な臭いに、耐えれるものは、誰もいなかった。

 ある時、1人の若者が、やってきた。
 それから、若者の顔が、変わることはなかった。
 彼は、潜水の名人だった。いくらでも、息を止めることができた。

 ところが、半年ほど立った頃、若者は、侯爵婦人が、放屁すると、気絶してしまった。
 次の日もそうだった。
 その次の日もそうだった。
 次の次の次の日もそうだった。

 とうとう、若者は、命を失ってしまった。

 老婆は、そっと猫を窺う。
 猫は、笑う代わりに、もの思いに沈んでいた。

 おや、お前は、賢いね。

 いつの時も、恋は、人智を越え、神秘的なものだ。
 若者は、侯爵婦人に、恋したのだった。
 若者は、侯爵婦人を、まるごと愛そうとした。

 そういうことだ。

※G・ガルシア・マルケスの『愛その他の悪霊について』に登場する侯爵婦人がモデルです。

1995/08/03

花火

 川原のきれいな夕焼けを、バックにして、人々が集まってくる。

 今日は、炎が、吹き上がってくるような、酷い暑さだったが、さすがに、太陽が沈むと、川面で、冷やされた風は、爽やかだった。
 夏草が、風にそよいでいる。

 人々は、花火の打上場へと向かうのに、2つの影が、反対の方向に歩いている。

 信男も、正子も、黙っている。
 人々の騒めきが、遠くなったところで、2人は、歩みを止めた。川原に、腰を下ろす。

 正子の頬は、涙で濡れている。
 信男は、耳を澄ます。風の音が聞こえる。その音は、いかにも、涼しげだった。

 目を開けると、真っ暗だった。
 驚いて、周りを見回す、信男の耳に、ドーンという音が、響く。
 夜空に、大きな花が開く。
 信男の弾んだ視線が、正子を捉える。

 正子の目は、ガラス玉のように、遠い輝きを反射させている。なにも見ていない。
 信男は、そっと、溜息を吐いた。

 川面の中で、輝きが、消えていく。風の音が残る。

 信男は、口を開こうとした。
 ドーン、ドーン。
 信男は、夜空を見上げる。華やかで、大きな花が、次々に咲く。
 信男は、すっかり見惚れてしまう。

 信男は、肩に手を感じる。その手に、そっと、自分の手を重ねてみた。
 その手は、熱かった。

 難しいことは、なにもない。この熱さを信じればいいんだ。
 顔を横に向けると、微笑んだ正子の顔があった。

1995/07/30

2016/03/15

 大きなガラス窓越しに、晴海通りが、横たわっている。
 静かな音楽。
 少し気恥ずかしくなる、白で統一した、インテリア。
 中年の、もの静かな、男性が、テーブルの間を動き回る。

 秋夫は、アイス・ティーを2つ注文した。

 トラックが通り過ぎる。音は、聞こえない。
 華やかな街の中を、産業道路が走っている。
 だから、僕はこの街が好きなのかな。

 秋夫の視線が、トラックを追う。その視線が、窓ガラスの中で、あの人の視線とぶつかる。
 あの人は、窓ガラスの中で、微笑んだ。

 あれから、何年になりますでしょうか。ずいぶん歳を取って、びっくりなさったでしょう。もうすぐ、本物のおばあちゃんになるんですよ。

 アイス・ティーが、運ばれて来る。2つのアイス・ティーが、静かに、テーブルに置かれる。
 秋夫は、アイス・ティーに、口をつけた。

 そう、ずいぶんの時間が立った。
 あの人は、30代の半ば、僕は、20歳になったばかりだった。

 秋夫の心の中では、その時から、時計が止まっていた。
 だから、初めてあの人を見たとき、ショックを受けた。

 人は誰でも、歳を取る。そう、それだけのことだ。

 コップの中の氷が、澄んだ音を立てる。
 秋夫は、コップを両手で包んだ。
 冷たくて、気持がいい。

 コップから手を離そうとすると、今度は、あの人の手が、秋夫の手を包んだ。
 柔く、暖かった。
 不意に、秋夫の目から、涙が、溢れた。

1995/07/25

2016/03/13

香水 ver. 1.1

 梅雨は、なかなか立ち去りそうにない。
 今日も、線路をしっとりと濡らしている。

 昼下がり。電車は、空いている。

 透は、座席に座ると、そのまま、眠ってしまった。
 顧客の苦情で、飛び回っている。明らかに、会社のミスだった。できるだけの対応をして、顧客の信用を保たなければならない。透は、全力を尽くしている。だから、疲れる。本格的に、眠ってしまった、

 透は、心地好さに包まれた。その心地好さの中には、痛みがあった。その痛みが、透を寝覚めさせた。
 香水の香りがする。あの人が、つけていた香水だ。すっかり、忘れてしまったと思っていた人の香水の香りを、透は、目を閉じたまま、鼻の奥に吸い込む。
 透は、自分が、その人をまだ愛していることに気付く。切なさが、甦る。

 電車が、止まる。隣で、香水の女性が、立ち上がる気配がした。ドアが、開く。
 その時始めて、透は、目を開けた。あの人では、なかった。
 ドアが、閉まる。電車が、発車する。

 透の席の隣は、空っぽのままだった。透は、見知らぬ街に置き去りにされた、子供のような、孤独を感じた。
 子供のように、泣けたらなあ。
 透は、窓の外を見た。

 雲が、街を覆っている。
 雨が、街を包んでいる。

 その雨は、永遠に降り続くようだった。

1995/07/16

2016/03/10

冷酷

 私は、中世ヨーロッパのある国の王に興味を持った。

 その王は、冷酷さで知られていた。必要とあれば、女子供も、容赦なく殺した。生まれたばかりの、親族の男の子の首を将来の禍の種になるからと、自ら刎ねた。王は、どんな感情も交えずに、やってのけた。

 私が、興味を持ったのは、その王が、民衆から、愛されていたことだ。怖れられ、憎まれるのなら、話は分かる。なぜなのだろうか。

 私は、中世ヨーロッパの碩学に紹介してもらった。教授は、私の話を聞くと、頷いて、王にまつわる話を聞かせてくれた。

 タキは、豪の者として通っていた。街で、ごろつきに取り囲まれたとき、素手で、全員、殴り殺した。剣の技は、神技に達していた。光が走ったとき、敵の首は、落ちていた。

 王は、このタキに、自分の息子の教育を委ねた。
 王は、息子を溺愛していたが、そのあまりに美しい顔、優しい声、優しい心を心配していた。中世のヨーロッパで王であるためには、時には、悪魔にでもならなければならない。王は、王子に剛胆さを身に付けさせるために、タキを選んだのだった。

 王子は、一遍で、タキが気に入った。タキの単純な魂は、底まで透明だった。タキも王子が気に入った。王子の優しい心は、タキの中にある荒ぶるものを宥めてくれた。タキは、王子といると心が安らいだ。王子は、まだ5才だったが、タキは、心の中で秘かに、この人こそ、自分のご主人様だと思い定めた。

 人々は、仲睦まじくしている、王子とタキをよく見かけるようになった。そんな時、タキは、幸せな穏やかな顔をしていた。人々は、タキが優しくなったと噂し合った。

 王は、落胆した。タキの剛胆さが、王子に移る代わりに、王子の優しさが、タキに移ってしまった。
 ある日、王は、タキを呼んだ。タキよ、お前は、私の息子を愛してくれる。息子は、いずれは、この国の王になる。タキよ、王たるものに必要なものはなんだ。タキは、王が言いたいことを悟った。王であるには、王子は優しすぎる。タキは、一言、分かりましたと言うと、王の前から引き下がった。

 タキは、王子を遠乗に誘った。王子は、乗馬がうまかった。タキと王子は、草原に腰を下ろした。タキ、こうしていると本当に気持がいいなあ。タキは、笑って頷いた。しかし、タキは、すぐに顔を引き締めた。

 立ち上がる。剣を抜く。王子よ、強くなりなされ。
 タキは、一瞬で、自分の首を刎ねた。

 この王子が、成長してあなたの王になったのです。
 王は、いつも、タキの言葉を心の中で聞いていたに違いありません。強くあるために、必要以上に、自分の中にある優しさを殺したのでしょう。だから、冷酷王と呼ばれたのでしょう。しかし、民衆は、王の冷酷さの奥に、優しさがあるのを見抜いていたのでしょう。

 そう言い終わると、教授は、研究室の窓を開けた。初夏の風が、流れ込んできた。

 王子は、タキを愛していたのかもしれませんね。

1995/05/29

 吾作は、働き者だった。それは、村の誰もが認めていた。

 吾作は、浅黒く、優しい表情が似合う、もの静かな若者だった。でも、少し変わり者かな。それが、村人の一致した、吾作に対する評価だった。

 去年の春から、吾作の耕す畑が変わった。村で、火事があり、一家が全滅した。畑を耕す人間がいなくなった。。地主は、この畑を、働き者の吾作に耕させることにした。畑は、大きかった。吾作は、以前の畑を、他の人間に任せてくれるように地主に頼んだ。地主は、承知した。こうして、吾作の畑が変わったのだった。

 吾作は、畑仕事が好きだった。春の光りの中で、流す汗は、とても気持がよかった。腹が減ったな。吾作は、腰を下ろす。
 それを見て、隣で働いていた、寅が、笑みを浮かべながら、やってきた。寅は、未亡人だった。吾作より、一周り以上、年上だった。吾作が耕す畑の隣の畑を耕していた。どちらかと言えば、醜かった。でも、いつも気持のいい笑みを浮かべていた。寅は、決して、人の悪口を言わなかった。寅と話すのは、気持がよかった。
 いつしか、吾作は、寅の顔を見るのを、一番の楽しみにするようになった。

 いつものように、寅が、おかずを分けてくれた。吾作は、遠慮なしに食べた。寅は、本当に料理が上手いなあ。はい、料理だけが取柄の女です。寅は、気持ち良さそうに笑った。そんな寅を見ながら、吾作は、幸せを感じた。

 こんな春のある日、寅の姿が見えなかった。翌日、寅が山道で、落石に遭って、死んだと聞いた。
 吾作は、日がとっぷりと暮れても、畑の中で、腰を下ろしていた。

 空っぽだ。

 翌朝、村人は、家の中で、首を括っている、吾作を見い出した。
 村人は、初めて、吾作の恋を知った。

1995/05/22

2016/03/09

鬼 3-3

 長野修一は、いま古代日本の家屋を発掘している。

 修一の発掘の目的は、骨から復元された若者について少しでも知りたいということだった。
 若者は、どこか懐かしい感じがした。そして、自分にとって、最も大切なもの。そんな思いがしたのだった。

 修一は、不思議に思う。自分は、孤独を好む人間だ。静かな学問の世界に遊んでいる時が、一番幸せだ。そんな自分に、これほどまで人を懐かしむ気持があるなんて。

 しかし、同時に修一は、恐れを感じていた。なにかが、自分のなかで目覚めつつある。それは、禍禍しいものだった。2つのものが自分の中で成長しつつある。修一は、どちらも本来の自分であることを直感した。僕は何者なのだろうか。

 修一は、ホテルに戻った。修一の部屋は、7Fだ。

 熱いシャワーを浴びると、すぐにベットに入った。発掘作業は疲れる。神経を使うからだ。

 真夜中に、目が覚めた。自分が何者なのか、はっきりと分かった。

 僕は、古代日本人だ。そして、異なるものだ。あの若者とは、異なるものの村で兄弟のようにして育った。
 僕は、自分の両親が普通びとから殺されたことを知った。僕は、鬼となり普通びとに復讐した。僕は、異なるものの掟を破った。あの若者は、死刑執行人だ。

 若者は蘇った。そのことを修一は悟った。
 同時に、修一は、異形のもの、鬼へと変身し始めた。それは、一度破壊衝動を開放してしまった者の運命だった。残忍で狡猾な鬼が出現した。

 鬼は、咆哮した。ホテルは、その衝撃で崩壊した。
 月光に照らされた瓦礫の中から、鬼が立ち上がる。

 鬼の心に若者の優しい言葉が届いた。

 いまのままの君を愛する。君と戦うことは、間違ったことだ。
 その言葉を残して若者の気配が消えた。この世界から永遠に。

 鬼は、泣いた。やがて、夜が明ける。太陽が顔を出す。
 鬼は、太陽に向かって真一文字に飛んでいった。

 そして、消えた。

1994/11/28

鬼 2-3

 ガラス・ケースに入れられた骨。ここは、大学の研究室だ。

 骨は、古代日本人のものだった。骨は、美しい程に白かった。真珠みたいだな。研究員の一人は、そう呟いた。

 いまは、月も眠りに就く真夜中。誰もいない。

 骨は、ガラス・ケースの中で浮かび上がる。発光する。蛍のように青白い光を点滅させる。ガラス・ケースを滑らかに突き抜ける。研究室の空間の真中で止った。研究室の温度が、一気に氷点下30度まで下がった。

 ガラス・ケースが粉微塵になる。ガラスの塵が、骨の青白光を反射させながら、部屋一杯に広がる。やがて、ガラスの塵は、床にゆっくりと舞い降り始める。

 床が、ガラスの塵で覆われた時、一人の人間が現われる。
 私は、異なるものだ。それは、そう言った。

 豊かな肩。引き締まった腰。戦う者の体だ。しかし、長くほっそりした首がそれを裏切っていた。
 その口から出るのは、戦いの叫びではなく、優しい詩が相応しい。

 自分がこうして蘇ったということは、彼も実体化したということだ。
 彼のことを考えた。自分にとって、一番大切な人間。

 2人とも、両親がいなかった。異なる者たちの小さな村は、彼らを捨てずに優しく育てた。
 2人の間には、実の兄弟よりも強い絆が出来た。2人は、幸せだった。四季の繰り返しを何度も味わって、死を迎えるはずだった。

 しかし、彼は、自分の両親が普通びとから暴行され殺されたことを知った。彼は、狂った。普通びとを殺戮し始めた。
 村には、強い掟があった。普通びとに決して手を出してはならない。誰かが、彼を殺さなければならない。その役目を引受けた。せめて、自分の手でという気持からだった。

 恐ろしい死闘が始まった。力は、互角だった。2人とも、エネルギーを使い果たした。エネルギーを回復するには、時が必要だ。彼は、生まれ変わりを選んだ。私は、骨となり時が流れるのを待った。

 戦いが、再び始まる。

 月が眠りから目覚める。月光が、研究室に差し込む。

 いや、戦いは始まらない。私は、間違っていた。
 彼が完全に蘇れば、悪鬼のような存在になるだろう。しかし、それでも私は彼を愛している。それならば、彼の好きにさせるだけだ。それが、一番正しいことだ。

 研究室にいる人間の顔に笑いが広がる。静かで優しい笑いだ。そして、その人間は消えた。

 この世界から、永遠に。

1994

鬼 1-3

 長野修一は、発掘現場にいる。

 修一達が発掘しようとしているのは、古代の日本文化だ。いや、正確には家屋だ。

 なんらかの原因で土砂に巻き込まれそのまま土のなかに埋もれてしまった家屋。たぶん大雨のせいだろう。

 この家屋は、ひっそりとした山間を突き抜ける道路を作るときに発見された。最初に発見されたのは、人間の骨だった。殺人事件として、警察が呼ばれた。そして、調査の結果、この骨が古代の人間のものであることが分かった。

 修一は、その骨から復元された人間の表情を覚えている。若者だった。どこか深いところに悲しみを秘めているような表情。
 もちろん、骨からの復元には限界があり、まったく別の顔立ちでもありうることを修一は知っていた。しかし、修一はそんな表情の持ち主だったと直感した。

 いま、修一を動かしているのは、古代の日本文化を知りたいという思いではなく、この若者について知りたいという情熱だった。

 この発掘に関しては、周りから反対された。文献が豊富にあり、文化遺産も豊かな時代の発掘になんの意味がある。それも、普通の人家だ。

 修一は、具体的なものからその時代の文化を組み立てることがいかに重要か冷静に説いて回った。そして、発掘に漕ぎ着けた。

 修一は、自分を動かしているものが、若者について知りたいという情熱と知っていた

 しかし、誰かが修一にその情熱は恋だと指摘したら、修一は、心から驚いただろう。

1994

男と女

- ホテルのレストラン。向かい合う男と女。ボーイが注文を取り、去る。もっと注文して欲しいみたいだったわ。よし、彼を喜ばせよう。ギャルソン!ボーイが来る。注文を頼む。部屋をひとつ - クロード・ルルーシュ『男と女』

 健太は、母が自慢だ。優しく美しい。そして、強い。

 夜道を母と歩いていた時、母が酔った男達から絡まれたことがあった。そこをお退きなさい。そう母は言っただけだった。しかし、男達はひるんだ。その声は、穏やかだったが凄みがあった。結局、男達はブツブツ言いながら去った。

 お母さんは、すごいなあ。健太の母は、笑った。少なくても、酔っ払いには負けないわ。月光が、今日はさえざえとしている。その月光が、母の上気した横顔を照らしている。本当にきれいだな。健太は心の中で賛嘆した。そして、決心した。思い切って聞いてみよう。

 お母さんは、どうして結婚しないの。健太の母は、立ち止った。そして、健太の瞳をのぞき込んだ。どうして、そんなことを聞くのかな。

 街をお母さんと一緒に歩くと、男の人達はみんな振り返るよ。お母さんは、きれいだ。素敵な人が見つかるよ。その人と結婚すれば、幸せになれる。そう僕は、思うんだ。健太の母は、少し考え込んだ。

 私は、寂しそうに見える?うん。そうか。それは、私があの人をまだ愛しているからだわ。健太はどう?お父さんのことはほとんど覚えていないよ。そう健太は正直に言った。そうね、無理もないわ。話を戻しましょう。

 健太、人間には2通りあるの。いろんな人を愛して自分を深めていく人と、ただ一人の人を愛し続けて自分を深める人の2通りの人がいるの。私は、後者のタイプだわ。愛している人がいるから、結婚しないの。そう言ったときの母は、本当に幸せそうだった。

 健太は、ふと不安になって、聞いた。お父さんと僕とどっちが好き?健太の母は、迷ったが正直に言った。あの人よ。

 健太は、その言葉を受け入れることが出来た。誇らしい気持になった。自分が一つ成長したのが分かったからだ。

1994

星の爆発

- もっと強く 生まれたかった しかたがないね これが僕だもの - 早川義夫

 遥かな遥かな彼方。遠いという言葉が意味を無くすような遠い宇宙空間で、時空をバラバラにしてしまう様な猛烈な爆発が起こった。

 その爆発の余波は、長い長い時間。長いという言葉が意味を無くすような長い時間を経て、地球に達した。

 健太の母は、自分が小説の登場人物であることを悟った。そして、作者がいた。

 電車が止る。ドアが開く。
 作者は電車に乗る。健太の母も続いた。作者が座るのが見える。

 健太の母は、さりげなく隣に座った。窓の反射を利用して、作者を観察する。

 窓に映った顔を、最初は自分の顔かと思った。いえ、私の顔ではないわ。

 作者の顔にある表情が、いつも鏡の中で見る表情と同じだったからだ。
 なにかを失った顔。そして、その空虚を決して埋めることの出来ない顔。

 健太の母は、目を閉じた。私と同じ人間がいる。

 あの人が亡くなってから何年立つのかしら。あの人の笑顔。温もり。匂い。空気や水のようにいつも私の周りにあったもの。

 いまの私は、空気も水も奪われて、宇宙空間に放り出されている。永遠にその虚無の中を漂うのが、私の運命だ。そんな風に健太の母は考えていた。

 その運命が、人を愛した故の運命なら、甘んじて受けよう。生きることは、辛くて当たり前。そう言った人がいたっけ。

 電車の窓に映る健太の母の顔は、微笑している。

 電車が止る。ドアが開く。
 健太の母は、電車を降りる。

 作者のことも、自分が小説の登場人物であることも忘れている。

 静かに雨が降っている。

 暖かい雨だ。濡れて帰ろうかな。そう、健太の母は、思った。

1994

2016/03/08

義手

- 闇の中の光り。それが僕にはより完全なものと感じられるし、希望を思わせもするんだ - ティム・バートン

 健太の祖父の左手は義手だ。健太と祖父は、「親友」と言ってもいい間柄だったが、健太は、その左手のことについて聞いたことはなかった。それが礼儀だと知っていた。

 秋の気持ち良く冷え込んだ朝、散歩を終えた健太と祖父が縁側に座っている。祖父は、天気のことでも話すように何気なく話し始めた。

 健太は、俺の左手のことについて聞いてこないな。健太は、少し祖父を見つめた。お母さんが言っていたよ。聞くべきことと、聞くべきでないことがあるって。

 祖父は、目を閉じた。あの人らしいな。それから、祖父は話し始めた。

 祖父は、猟が好きだった。ある山村に立ち寄った。長老に招かれた。招かれた部屋には、美しい狼の毛皮が飾られていた。祖父は、嫌な気がした。狼を尊敬していたからだ。

 その部屋で、狼を退治してくれと頼まれた。村人が何人も襲われている。村人は、そ奴を「死神」と呼んでいる。祖父は承知した。

 山に入った。風を感じた。影が走った。ドサッとなにかが落ちる音がした。祖父の左手だった。祖父の右手に魔法のようにナイフが現れた。狼は動きを止めた。空気の密度が一気に上がった。動きを少しでも誤れば殺られる。

 目と目が合う。狼の目には大きなものを失った悲しみがあった。同じ悲しみを狼は祖父の目に見た。祖父も妻を亡くしていた。ナイフの切先が下がる。狼は尾を軽く振った。それは共感であり励ましだった。祖父と狼はもう一度目を合わせた。そして、別れた。

 祖父は、長老の家に忍び込んだ。そして毛皮を持ち出した。これは、狼の妻だ。祖父は山に入り、その毛皮を山に埋めた。

 風を感じる。それは優しい感触だった。来たか。お互い頑張ろうな。風が去る。

 それ以来、村人は「死神」を見ることはなかった。

 俺がまだ若かった頃の話だ。

1994

心中

 初対面の藤純子と高倉健。

 雨が降っている。濡れる高倉健に傘を差し出す藤純子。
 二人の手が軽く触れる。

 健太は、その時火花が飛び散ったのを見た。
 'To meet you is to love you.'その言葉が、健太の心に染みた。

 映画館の近くの喫茶店の中。健太と祖父が座っている。

 健太は、「火花」のことを祖父に話した。ほう、お前には見えたか。祖父は健太を見つめた。

 お前には才能があるということだ。才能ってなんの話だい。いいか、恋をするにも才能が必要ってことだ。選ばれた人間だけが、本物の恋をすることができる。

 これは、受け売りだがな、愛はエロスという凡庸さを伴っている。健太はキョトンとした。難しいや。いや、簡単なことだよ。愛は、結局は平凡なものに終わるということだ。激しい恋も、いつかは醒めるということかい。

 そうだ。そんな恋の激しさは、エロスゆえの激しさだったということさ。要は、エロスからどこまで遠くまで行けるかということだ。エロスから離れたとき始めて愛は羽ばたく。

 でも、エロスがなければ、恋は始まらないだろう。ふーん、なかなか賢いね。だから、才能と言ったのさ。

 もう一度、祖父は健太を見つめた。その目は温かい。

 後年、健太は心中事件を起こした。祖父はそれを聞いてあっぱれと叫んだ。

1994

一葉の葉

 風が起こる。樹が騒めく。その風に乗って、葉が一葉、小川に着いた。

 葉は、最初戸惑ったように、あっちに行ったり、こっちに行ったりしていたが、すぐに流れに乗ることを覚えた。気持ち良さそうに流れを下った。

 いまは秋。全てのものが透明な光りの中でキラめく季節だ。葉は、そのキラめきに包まれて止った。うっとりとしているように見えた。

 水の表面が、かすかに揺れる。もう一葉、葉が風に運ばれて来たのだった。その葉も、最初は戸惑った。しかし、仲間を見つけるとすぐに寄り添った。

 風が、それら2葉の葉を動かす。くっついたり、離れたりしながら、クルクル動く。本当に楽しそうだ。

 やがて、小川は小さな滝に差し掛かる。2葉の葉は、水中に巻き込まれる。1葉だけ、水の中から出てきた。もう一葉は、水に呑み込まれたままだ。そのまま、水から出た葉は流された。

 小川のほとり。風が起こる。すると、狼がいた。
 狼は、水を飲む。

 ふと目を上げると、葉が流されていた。葉の端から、水滴が落ちる。狼には、それが涙に見えた。

 狼は、その葉をしばらく見やった。

1994

死神

 冷たく澄み切った空に満月が出ている。

 雲が出る。やがて、夜空は雲で覆われる。そして、雪が舞い降りる。風が木から木へと動く。
 その風には、影が付いている。影の正体は、狼だ。

 影は一軒の農家の前で立ち止る。中には「妻」がいる。しかし、「彼」は助けることはできない。彼は、群れのリーダーだ。危険を犯すことはできない。

 彼は、木と一体化する。そして、気配を消す。彼は、待った。妻は殺されるとき、悲鳴を上げなかった。しかし、生を奪われる悲しみが彼に心に伝わってきた。

 体が震えた。血の涙が流れた。彼は雪が心の炎を消すのを待つ。しかし、消えなかった。
 彼は、悲しみと怒りの全てを咆哮に変えた。山が揺れ動くかというほどの咆哮だった。

 風が起こる。その風に乗って彼は山奥に消えた。

 彼は、後継者を育てた。そして、群れを去った。
 彼は、人間達を殺戮した。

 人間達は、彼を死神と名付けた。

1994