正男の父親は、山を愛した。
普段歩くときも、飛ぶように歩いた。中学生になり、高校生になっても、父に追い付くことはできなかった。
正男の父親は、単独登山を好んだ。狷介孤高の人だった。
当然のこととして、正男は、父を怖れ、同時に反発した。
高校の時、口論になった。正男は、原因を覚えていない。激しい口論だった。
遂に、父は、正男を殴った。一つ一つのパンチがこたえた。頑丈な石で殴られているようだった。正男は、家を飛び出した。
そのまま、親の家から、離れて暮らすようになった。大学の学資だけは、父が出してくれた。正男は、社会人になり、結婚し、家庭を持った。
自分が父親になって初めて、父の気持が分かった。
そんな時、父が、身体を悪くした。正男は、見舞いに行った。
正男が病室に入ると、ベットの上の父は、顔を窓の方へ逸らした。
親父、相変わらずだな。正男は、明るく声をかけた。父は、顔を向け、少しだけ笑ってみせた。
正男、茶を入れてやろう。父は、上体をゆっくりと起こした。それから、慎重に、足を床に下ろした。立ち上がる。歩き始めた。赤ん坊が這うスピードよりも遅い歩みだった。
あの親父が、あんな歩き方をしている。正男の視界が、涙で曇った。
飛んでいって、親父を抱きしめたい。
その思いを必死で押さえながら、正男は、涙が流れるのを、堪えた。
1995/06/03