2016/03/09

電話

 朝は、戦争だ。
 正子は、夫と2人の子供を、無事、会社へ、学校へと送り出さなければならない。

 正子の朝は、早い。夫の弁当を作るためだ。正子の夫は、胃腸が弱かった。消化がよく、且つ、栄養のバランスの取れたものを食べる必要があった。
 また、正子は、家族に必ず朝食を食べさせた。朝食こそが、精神的にも肉体的にも健康をもたらすと信じていた。その朝食を作るためにも、正子は、早起きした。

 正子は、朝食の食卓で、家族の1人1人を気遣った。下の子が、なんだか元気がない。上の子が、昨日そっと教えてくれた。親しくしている女の子と最近上手くいってないらしい。正子は、下の子の目を覗き込みながら言った。自分から、大きな声で挨拶してみたらどうかしら。下の子は、眉根を寄せて、しばらく考え込んだ。やがて、明るい表情になり、やってみるよと大きく頷いた。

 正子は、夫に視線を移す。いつものように、上着のボタンがかけ違っている。正子は、席を立つ。夫の側に近づき、上着のボタンを優しくかけ直してやる。いつものように、夫は少し赤くなり、微笑んだ。

 こうして、正子は、家族を外の世界に送り出す。

 正子は、大きく息を吐いて、ソファーに腰を下ろす。そんなとき、いつも正子は、電話を見つめている。
 いつからのことだろう、こんなふうに電話を見つめるようになったのは。
 私は、なにかを待っているのだろうか。

 正子は、ゆっくりと首を横に振る。

 窓の外には、爽やかな初夏の空が広がっていた。

1995/05/01