2016/03/09

 初夏の爽やかな風が通り抜けていく。
 川面は、岸の緑を映し、キラキラ光っている。

 男は、空を見ていた。抜けるような青と、眩しい白。
 男は、その青と白に自分の身体が染まってしまえばいいと思った。そしたら、どんなにいいだろう。初夏の空と1つになることができたらどんなにいいだろう。

 男は、筏の上に仰向けに横たわっている。男は、頭をもたげる。汚れた暗い赤が見えた。俺にはこっちの方が相応しい。
 男の下半身は、グチャグチャに潰されていた。胴体と両手は、筏にロープでしっかりと結び付けられていた。

 まったく、人の身体だと思って好き放題やってくれるぜ。男は、喚き声1つ上げなかったことを思い、一瞬、誇らしくなった。しかし、すぐに涙が流れた。

 それがなんだと言うのだろう。痛いときに、痛いと叫べないなんて、片端だ。
 いつから、そんな人間になったのだろう。生き残るために、あらゆる感情を殺し、冷徹な人間になったのは、いつからだろう。

 男は、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。俺が選んだ生き方だ。誰の責任でもない。

 男は、再び空の青に魅入った。死ぬ前に、海が見たかったなあ。海は、まだ遠いのだろうか。

 男は、感覚を研ぎ澄ましてみる。潮の香りが微かにした。遠く轟きが聞こえてきた。男は、満足した。そのまま、意識が無くなった。

 海は、遥か遠くにあり、まだどんな印も見せていなかった。

1995/04/28