冴子は、いつも海に憧れていた。
冴子は、四方を山で囲まれたところで育った。
だから、初めて海を見たのは、5歳の時だった。誰に連れて行かれたのだろう。父のような気もする。祖父のような気もする。母だったかもしれない。
不思議に、記憶は曖昧だった。はっきり覚えているのは、自分が高鳴る胸を押さえかねていたことだ。
いよいよ、海が見れる。その思いは、冴子に期待を抱かせたというよりは、冴子を不安に陥れたと言うほうが正しかっただろう。不安なあまり、冴子は、どこかに逃げ出したかった。
そんな冴子の前に、海は、あっさりとその姿を現した。
海は、夏の太陽の下で、静かに輝いていた。その時、冴子の海に対する憧れは、決定的なものになったのだった。
海に対する憧れと共に、冴子は育った。そして、船員と結婚した。いや、冴子は、海と結婚したのだ。
一度航路に出ると、夫は、長い時には、半年戻らなかった。冴子は、その不在の中で、海への憧れを育んだ。
夫が戻ると、冴子は、夫を丸裸にした。冴子は、夫の身体をまじまじと見つめた。夫の身体には、海の濃厚な反映があった。あんまり見つめられるので、夫は、いつも、顔を赤らめた。
こうして、冴子は、夫を通して、海と繋がっていたのだった。その夫が、浮気をした。口論になった。
お前は、俺を愛しているのではない。海を愛しているんだ。お前は、海を知らない。あれは、ただ単調で、退屈なだけのものだ。
夫の言葉は、冴子の耳を焼いた。
うなだれて、冴子は、キッチンに入った。水を飲もうと思ったのだ。
刃が白く光る包丁が目に入った。
気付くと、包丁の柄を握っていた。
振り向く。
夫の醜い背中が見えた。
1995/06/12